1月 8th, 2015
2003年の当時のホカツ
こんにちは。
シンカ代表の手島です。
昨日取り上げた待機児童の問題について我が家の保活を思い返しました。
※昨日のエントリ
認可保育園のわが家の待機順番は「400番台」
2003年6月生まれの長女を2004年の4月にゼロ歳児クラスに入園させて妻が職場復帰を目指しました。
当時は保活なんていう言葉もない時代。保育園の入園の判断は”得点制”なんだということは何となく理解していましたが、どこかには入れるだろうとまったく不安に思っていなかった印象です。(妻に怒られてしまうかもしれませんが)
いまでは考えられないですが、そのころの情報収集はほとんど妻任せでした。当時、自宅が駅から200mくらいのところにあったので、どこの保育園に預けるにも「駅から遠ざかる」状況でした。
第一希望は一番近い保育園。300-400m程度離れた公設公営の保育園。
第二希望はその次の距離、1kmくらい離れた民設民営の認可保育園。
ゼロ歳児ですから、定員は6人とか8人だったはずです。「少ない!」と思った記憶があります。
提出する書類には第六希望まで欄があったはずですが、第二希望までしか書かずに提出しました。
「それ以外は通えませんアピール」だとして…
夫婦共に実家は都内にはなく、妻の実家は愛知県です。”得点”は低くなかろうということでかなり強気の申請です。
いまでは考えられないと思います。
遠い昔話。もしくは何かの作り話のようなことです。とても楽観的な対応で、そして幸運な結果に恵まれました。
結果は、第二希望の保育園に決まり、長女、その後の次女と合わせて9年間お世話になりました。
今思えば、滑り止めではないですが、他にセフティネットを設けずによく「ホカツ」したなと思います。
第一希望の園よりも更に近くの、まさに家の目の前のビルに認可外(認証)の託児サービスができたころで、一度体験に行ってみたことはありましたが、心の中に、ビルの一室の託児所よりも自前の敷地に園庭があったり遊具があったりする昔ながらの保育園がいいなと思って手続きはまったく考えませんでした。
そんな10年ちょっと前の出来事がまさに隔世の感があります。
昨日のエントリで取り上げましたが、せっかく子どもと過ごすための休職期間の時間を、子どもとのことに集中できずに、「どこに預けられるか」ばかりに気を取られてしまうのはとても残念に思います。預けたあとはそれはそれで怒濤の日々が待っているのですから。
現在の地元の実態がどうなのかを知らないのですが、長女が産まれてからの10年で考えただけでも
子育て、保育園にまつわる状況はかなり変わりました。
これだけの変化があったのに社会の制度、仕組み、システムはあまり変わってないと思わざるを得ません。
行政がガラっと変わることは期待できない中、民間で力になれることも限られますが、
シンカも少しでも役に立てるようにと考えていきます。