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代表 手島 プロフィール
手島 正陽
シンカ株式会社 代表取締役

小規模のシステム開発会社に勤務していた2007年4月〜2011年10月の4年半、「時短勤務」として3歳長女・0歳次女の2人の娘の保育園送り迎えと家事一切を経験。(妻はプロジェクトが忙しい時期は毎日終電で帰宅) ワーキングマザーの大変さをまざまざと知りました。

そしてまた、2015年4月からフルタイムで働きながら夕方の家事も全部行う…生活に再挑戦中。学童保育も卒所した娘2人と日々奮闘中です。

この経験から、「子育てはもっと便利にできるはず」 「子育て本来の"楽しさ””充実感”が得られないのは残念すぎる」 という思いで、シンカとして独立した後は、『働きながら子育てすることを頑張っている人の役に立ちたい』という思いで日々サービス化を模索中。

シンカという会社名には「親になる=親化」の当て字も期待しています。 子育ては、親自身が学び、育っていく過程だと思っています。 私自身が子どもたち、子どもたちと接した時間から教わったことを世の中に還元できれば嬉しいです。

ちなみに、世間で言われるのは「ワーク・ライフバランス」ですが 私たちは「ライフワークバランス」と呼びます。 これについては下記Blogエントリ参照のこと。
http://blog.synca-corp.co.jp/lifeworkbalance/life-work-balance/

‘年金’ タグ

想定外の長寿命化

こんにちは。シンカ代表の手島です。

日経新聞のビジネス関連の情報ページにオリックス会長の宮内氏のコラム(blog)がありました。

65歳引退は「ぜいたく」に? 想定外の超長寿化  (宮内義彦氏の経営者ブログ)
2017/1/27 6:30[有料会員限定]

blog本編はかなりの長文(4ページ)なのですが、驚いた部分を引用します。

きょうは最近読んだ本に触発されて、これまであまり考えなかったことについて書いてみたいと思います。その本は昨年11月に発刊された「ライフ・シフト 100年時代の人生戦略」(東洋経済新報社)という本です。
専門家の予想では、例えば日本で2007年に生まれた子供の半数は、何と107歳まで生きる可能性が高いそうです。更にこれが14年生まれとなると109歳まで生きるということのようです。
長寿というのは喜ばしいことですが、自分の寿命は85歳くらいと考えていた人が、100歳まで生きる可能性が高いと言われれば、大変なことになった、生活設計を変えねばならないのではと思うようになるはずです。
寿命がいつ尽きるのかという想定が15年も20年も変われば、個人や国が考えていた将来設計の前提が覆ってしまいます。私自身もこの本を読んで大変驚きました。それではどうすればよいのでしょうか。この本の結論は明快で、会社を65歳くらいで退職して老後生活に入るこれまでの考え方を、改めねばならないということです。少なくとも75歳、できれば80歳くらいまで働かないと生計を立てられなくなるというのが新しい現実なのです。

こんな予想があるのですね。知りませんでした。
世間の人生設計と社会の制度と両方が変わる時代がくるのでしょうか。にわかには想像できませんが。

それにも増して驚いたことは

私自身は現在81歳ですが、ほとんど毎日出勤しています。年齢を重ねていくと行動力は徐々に低下しますが、判断力、理解力は少しずつ積み重なってプラスになっていく感じがします。

さすが一代で成す人は違うとうならされます。長寿命化の先端を体現されていたのですね。私もそうやってあと何十年か仕事をしていかなければならないのでしょうか。

本を手に取って見て自分自身のこととして考えてみたくなりました。

年金に世代間不公平は無いと。

こんにちは。シンカ代表の手島です。

日経新聞の夕刊にこんなコラム(記事)がありました。年金の世代間不公平はないという”消費生活アドバイザー”という方の主張です。

人生を変えるマネーハック
年金は若い世代に不公平か 実は団塊世代より恩恵?
公的年金をマネーハック(3)

世代間不公平の議論も「年金の収支だけ」で行うからミスリードをしてしまうのです。
多くの年金生活者世代が豊かな年金をもらっていることは、別の言い方をすれば「親を子が扶養しなくてもいい」ということです。
 歴史的にいえば、多くの親が子に扶養されることなく、公的年金で基礎的な生活費をまかない、退職金などで老後のゆとりを確保している時代は初めてかもしれません。
過去何百年(あるいは数千年)にわたって、親は子に扶養されて老後を送ってきました。「隠居」という言葉がありますが、(中略)肩身狭くし、子に生活の面倒をみてもらっていたわけです。子は親の生活にかかる費用をすべて負担してきました。
子の経済的余裕の範囲で親は生存できたのです。家庭内扶養ができなくなったとき、どうしていたかは「姥捨て山」という伝承が語っているとおりです。
 高齢者の多くは子の仕送りに頼らずやりくりをしており、「子の親への経済的負担」はかなり小さくなっています。今、働き盛りの子どもとしては公的年金制度があることで、親への仕送りを行わなくてもいい(もしくはわずかですむ)わけです。
これは今の年金世代である、団塊世代の現役時代との大きな違いです。団塊世代(とその前後の世代)は、自分の子ども(つまり私たちの世代)を育てつつ、自分の親(私たちの祖父母世代)をも家庭内扶養で支えてきました。

最後の部分は事実と違う気がしました。
各家族化が進んだわけですから、親の代を家庭内扶養したか?は割合としては少ないのではないかと思います。

この人のおっしゃるとおり、トータルの関連支出で考える意見も確かにそういう見方もできると思います。
でもやっぱり年金の受給額で考えると割を食っているという印象は持つと思います。

「将来賃金があがる」「所得はあがる」と信じていられた時代とそうでない時代で心理的な負担は相当違うと思うんです。

団塊世代は、少しくらい負担したって来年は給料上がるから。将来もっともらえるからと自信が持てていたはずです。いまの若い世代はどうでしょうか。まったく希望が持てないはずです。

その”バイアス”も要素に考えておかないといけないのではないかなと思いました。

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